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大友宗麟の墓

大友宗麟の墓

大友宗麟公の墓(津久見)

大友宗麟の墓について以下のような説明がある。
 
 大友宗麟は享禄3年(1530年)府内(大分市)の大友館で生まれ、父の横死のあとを受けて天文19年1550年)弱冠21歳で、戦国時代の真只中に大友21代の城主となった。その後内は統治に意を用い、外は武威を張り豊前豊後、筑前筑後、肥前肥後の6箇国と日向伊豫の各半分を領し、勢威九州を圧し大友の最盛期を築いた。
城主となった翌年宗麟は、日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルを迎えて教旨を聴き大いに振幅し、以後キリスト教を加護したため信者は日毎に増え府内には西欧文化が絢爛と栄えた。天正6年(1578年)神父カブラルから洗礼を受け、教名をフランシスコとした。天正10年(1582年)にはキリシタン大名大村・有馬と共に少年使節をローマに派遣した。
しかし天正14年(1586年)島津と戦って破れ、翌年豊臣秀吉の島津討伐があったが既に疲労甚だしく、天正15年(1587年)5月23日津久見の住居で聖者のごとく帰天した。時に58歳であった。
葬儀は神父たちの手によって盛大に行われ墓もキリスト教式に建てられたが、宗麟の死後僅か一カ月の後秀吉が突如耶蘇教禁令を発布したため、嫡子義統は仏式の墓に取替えた。その墓も荒廃し200年後の寛政年間に臼杵の旧族臼杵城豊が堂宇を新築し新しく墓をこれに納めたのが現在の墓である。
しかしその堂宇も破滅し見るに堪えないので、この度石田秀夫津久見市長、木下郁前県知事、平山高明カトリック大分司教、山本峰生県教育長と後任の矢野朔雄氏と私が、大友宗麟公顕彰会を作り、設計は期界の権威磯崎新氏に委嘱し、経費の大部分は水族館マリーンパレスが創業14周年記念事業として負担した。

昭和52年9月
大友宗麟顕彰会代表
(株)マリーンパレス社長 上田保

アクセス

津久見高校の横の通りを直進してしばらく行くと、「大友宗麟公墓地」の案内表示が見えるので、矢印に従って進む。道幅が非常に狭い部分があるので、大型車は通行できない部分がある。普通車は墓地公園の前に数台ほど駐車できるスペースがある。大友宗麟公の墓は左手から登っていく。正面から登ると、宗麟の胸像がある。
 
駐車場:普通車数台駐車可、大型車不可
トイレ:有
 
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