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序文

府内司教

 聖フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier,1506-1552)は1549年、日本に上陸、それ以後20年間は日本教会は発展したとはいえ司教を頂くような安定した状態ではなかった。しかし、ヨーロッパに於いては極東に発展する教会のことを考えて、極東の司教を問題にしていた。偶々エチオピアの布教が渉らず、ポルトガル王はそこの主座司教(Patriarca)アンドレアス・デ・オビエド(Andreas de Oviedo,1517-77)と補佐司教としてニケアの名義司教メルキオール・カルネイロ(Melchior Carneiro,1513-83)を極東に派遣することを提案した。
1566年2月、教皇勅書[Ex litleris carissimis]が発令されてそれが決定。しかしオビエドはエチオピアの布教の好転に期待してそこに留まり、1577年7月9日同地にて死亡。
オビエド司教の決意を知らないまま、カルネイロは1568年6月マカオに赴任した。彼は極東の司教ではあるが、マカオの司教ではなく法的立場は明白でなかった。それでもローマからの指示が来るまではマカオの司教代理であった。1576年マカオ司教区設立に際して彼は引退、イエズス会の修道院に引き籠もった。といっても1582年、初代司教着任まで代理の任をとらねばならなかった。マカオ司教区は「支那の全域、日本列島、マカオとそれに隣接する諸島とその地方」が委ねられ、ゴア大司教区に属していた。初代司教はレオナルド・デ・サア(Leonardo de Sa,?-1597年)であり、彼の時代に府内司教問題がとり扱われた。
日本の司教問題は、日本に於いても幾度も論議されたが、時期尚早ということで可決されなかった。従って希望があったにもかかわらず、カルネイロ司教は日本の上地を踏むことはなかった。主な理由として、1)宣教師には多くの特権が与えられていて、現在司教は不要である。2)教会組織をつくるには機が熟していない。 3)司教区として財政的基盤がない。 4)外国人司教と共に在俗司祭が多数到来し、布教の統一に欠ける。従って日本人聖職者が養成された段階で改めて司教問題を決議するという大方の意見であった。このようにして叙階はマカオで、堅信は行われぬという方針がたてられた。
1580年、日本で行われた協議会(Consulla)で上述の意見がとり交わされ、巡察師ヴァリニャーノ(Alessandoro Valignano,1539-1606)神父は、この意向を説明すべくローマに赴くことを決定した。彼が考えていた日本の司教は、イエズス会員であることと。秘跡のためのみであり、行政にはかかわらないということであった。 ヴァリニヤーノ神父の計画した天正の少年使節は。ヨーロッパ各地に予期しない反響を及ぼした。府内(大分)はヨーロッパのリスボンやローマのようなカトリックの街の印象を与えた。 1584年、王室顧問会議は日本司教問題を扱い、イエズス会ポルトガル管区長、セバスティアン・デ・モライス(Sebastiao de Morais,1535-1588)師を推薦。 1584年1月19日の枢機卿会議(Concistorium)に於いて日本司教に任命された。日本司教区はマカオの司教区より分離、司教座は「豊後のキリスト教の王ドン・フランシスコ」大友宗麟の城下、府内であった。 ゴア大司教区に属した。しかし皮肉なことに88年ははや、豊後は完全に荒廃していた。1587年7月24日、秀吉の禁教令が発布されており、宗麟は6月28日死亡。息子の大友義統はキリスト教迫害者と変わっていた。
府内司教に任命されたモライスはリスボンに於いて司教に叙階されて、1588年3月、東洋への旅についたが、喜望岬で病に罹り死亡、モザンビークに葬られた。モライスの死亡の報を聞いてポルトガル王はペドロ・マルティンス(Pedro Martins, 1541-1598)を推薦し、1591年2月に教皇より任命された。彼は当時イエズス会インド管区長としてゴアにあったが、1592年秋、それを知った。補佐司教としてルイス・デ・セルケイラ(Luis de Cerqueira, 1552-1614)が任命された。1592年ゴアに於いて司教叙階、日本は禁教下にあり、ヴァリニヤーノの第二回日本訪問が終了してゴアに戻ってから、マルティンスは秀吉へのインド総督の使節の名目で1596年8月14日、長崎に上陸した。
11月6日秀吉と謁見、12月7日京を去った。しかし、京で堅信を授け、秀吉の不興をかった。その間にサン・フェリペ号事件の悲劇が起こった。 12月8日、京都とその周辺の宣教師を監禁せよとの命令が下り、24名が捕らえられ、途中で2名が加わり、長崎へ送られた。西坂の丘にて1597年2月5日殉教。3月になり宣教師追放令が出されたが、それを引き延ばすのに成功はしたものの、長崎奉行は少なくとも司教は日本を去ることを主張。宣教師も司教の滞在は日本教会には不利であると判断した。かくしてマルティンスはマカオに去った。更に彼はマカオを去り、マラッカを目前にして船中で12月18日死亡、マラッカで葬られた。日本では真の司牧者として働いたのはセルケイラ司教のみである。1598年、マルティンス司教死亡と同時にセルケイラは府内の司教となった。 1598年8月5日、日本上陸。日本は秀吉の死、関ヶ原の戦い、徳川政権の確立とめまぐるしく変転した。 1600年以後、彼はいつも長崎に生活したが、常に府内の司教と言われた。セルケイラ司教のもとに1601年より始まり、8名の日本人を司祭に叙階した。また司教館に教区の神学生をおき、日本人聖職者の養成に力を注いだ。1614年3月16日、全国の禁教令と宣教師追放令が発布されたその中で死亡した。 62歳であった。
セルケイラは補佐司教は不要と考え、空位の場合にはイエズス会の長上を管理者として任命するように提言していた。セルケイラ死後、7名の日本人教区司祭は、総代理(Vicarius Generalis)を選出、イエズス会管区長のカルヴァリョ(Valentin Carvalho,1558-1631)が選ばれた。 しかし、フランシスコ会、ドミニコ会側から異議がとなえられ、彼らは独自でドミニコ会のデ・モラレス(Francisco de Morales,1567-1622)師を選んだ。カルヴァリョはこれを批判、公証人をつとめた聖職者に聖務執行停止の罪を下しか。 しかし、カルヴァリョは同年日月マカオへ追放された。
1617年、バレンテ(Diego Correa Valente,1568-1633)は府内司教に選出され、3月司教に叙階された。 1619年6月マカオに到着したが、遂に日本の上地を踏むことはできず、マカオにて1633年10月28日没した。
 
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