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教区設立前史

新たな出発

幕末から教区設立前まで

長い迫害が続いていた日本への宣教再開について、布教聖省は、パリ外国宣教会に幕府の弾圧下にある日本に布教を再開することと信徒を発見する任務を託した。

幕末

1854年日米和親条約が締結され、鎖国の時代は終わった。
1858年日本はアメリカとの修好通商条約に調印、フランスともほぼ同じ内容の条約が締結された。外国人にキリスト教信仰の自由が認められ、開港場に設けられる居留地に教会堂の建設が可能となった。

ラゲ神父

ラゲ神父は受洗者の世話をすることから始めた。臼杵を起点として、南下して延岡、日向での宣教も意図していた。助任ハルブート神父は、臼杵地方に働きかけたが、信者は皆無であった。しかし1891年には11名の受洗者を出した。
ラゲ神父はルベル神父、ブイジュ神父、ブレンギェ神父の協力を得て、豊後(大分)、日向(宮崎)、薩摩(鹿児島)という広大な地域を受け持っていた。この地域でのカトリック信者は280名を数えるのみで実りは少なく、宣教師たちは人の冷淡と反感にさらされていた。
ラゲ神父の報告によると「自分とその協力者の熱意が、豊後では期待した実りをもたらさなかった」と語った後、日向(宮崎)で宣教を開始することを喜んでいる。

浦上の信徒発見

1865年大浦天主堂がパリ外国宣教会のプチジャン神父によって完成し、潜伏していた浦上の信徒発見。宮崎、大分は長崎司教区に属していた。
1882年フレノー神父はプチジャン司教に命じられて大分を訪れ、堀川町に仮の住居を定め、布教にあたったが嫌悪と警戒を受けた。しかし13名が洗礼を受けた。
1887年ペーラー神父は初代の大分教会の主任司祭として着任。現在の大分司教館がある場所(当時の紺屋町)に教会を建設。続いて叙階されたばかりの島田喜蔵神父が到着した。宣教の手段として劇場、学校、公民館、時には旅館を借りて講演会を開いた。講演会は時の流行でもあった。
1888年中津、竹田、臼杵、高田周辺にも巡廻所が設けられた。この年に30名が受洗した。
1890年聖書の翻訳で有名なラゲ神父が2代目として大分に着任。
1891年ラゲ神父、延岡に宣教。豊前と北九州の中間である中津に教会献堂。
1892年
宮崎教会はラゲ神父が、大淀川の近くに民家を購入し、開く。
1901年ジョリー神父が橘通りに宮崎教会を移転。
1911年ブレンギェ神父が6代目主任司祭として大分に赴任。第一次世界大戦が激しくなり、ブレンギェ神父はフランスに召喚され、神父不在の間、小倉教会のベルトラン神父が巡廻した。
1918年ブレンギェ神父が再び戻ってきて、別府に病者の布教を考え、病院巡りをし、受洗者も出た。

戦前の宮崎教会

1914年落成時の宮崎教会
大祝日には県内各地から信者が集まり、聖堂はあふれるほどであった。宮崎教会に来ることは、巡礼のようなものであり、信者の家や司祭館の片隅に泊まっていた。
宣教の方法として大分と同じように講演会を開いた。講演会は聴衆を引き付けた。宮崎に開いた幼稚園は、評価され好感を得ていた。

パリ外国宣教会からサレジオ会へ

1922年ローマ布教聖省はパリ外国宣教会が大分・宮崎を離れ、その後を引き継ぐため、サレジオ会に宣教師の派遣を依頼した。サレジオ会はそれに応え、日本へ宣教師を派遣することを決定する。
1926年2月8日、日本への宣教師団はチマッティ神父を団長とする9名であり、門司港に入港。長崎のコンバーズ司教を表敬訪問後、2月17日、宮崎に着く。
1927年2月18日チマッチ神父は、ピアチェンツア神父、リビアベラ神父とメルリーノ修道士を連れて中津へ。3月9日タンギー神父、マルジャリア神父と大分へ。
1929年チマッティ神父、カヴォリ神父の尽力と信徒の献金、労働奉仕、宮崎県の補助金により田野教会落成。チマッティ神父によって扶助者聖母会(サレジアンシスターズ)のシスター6名が招かれる。

パリ外国宣教会司祭とサレジオ会司祭

宮崎田野には長崎県から移住してきた信徒がおり、宮崎教会からチマッティ神父、カヴォリ神父、リビアベラ神父が交替で信徒に家でミサをささげていたが聖堂が必要であった。

小神学校建設

1930年中津に小神学校の前身ができる。
1933年宮崎市に小神学校建設。戦時中の1944年に閉鎖。それまで17名が東京大神学校に、18名がサレジオ会の修練院に入った。最初の日本人司祭は向井有吉神父であった。戦後、神学校は破壊されていたが、宮崎市の要請もあり、日向学院中学・高等学校として発足した。
1935年1月28日教皇ピオ11世の勅令で宮崎宣教区は知牧区に昇格され、チマッティ神父は初代知牧長に任命される。マレガ神父によって大分教会の聖堂と海星幼稚園の園舎が完成。1945年7月の空襲で聖堂、司祭館、幼稚園は全焼した。
1937年宮崎カリタス修道女会(イエスのカリタス修道女会)設立。
1940年鹿児島教区長の出口市太郎師が宮崎教区長を兼任。着座は翌年2月。 1945年 九州の全宣教師たちは熊本の阿蘇近くに数か月間強制収容された。8月15日終戦。
1946年福岡教区の深堀仙右衛門司教が宮崎教区長を兼任。
1949年深堀司教は宮崎地区を聖ザベリオ宣教会に譲るようサレジオ会に要請。宮崎県には聖ザベリオ宣教会がサレジオ会に代わって司牧を担当することになった。
1950年宮崎教会は聖ザベリオ宣教会ティモリーナ神父が主任として赴任。
1951年7月には宮崎県の教会は正式にサレジオ会から聖ザベリオ宣教会に任され、サレジオ会員の司牧の場は大分県に移った。
1961年布教聖省は大分県、宮崎県を含む宮崎知牧区を司教区に昇格させ、大分司教区としての新しい歴史が始まった。

第二次世界大戦前の教会と小神学校

神学生養成の必要性

宮崎小神学校
チマッティ神父は「日本人こそ同法の回心のために働くべきで、日本の教会は邦人司祭の手で宣教、司牧されるように成長する必要がある。そのためにどんな犠牲を払っても邦人司祭の召命を発見し、育成しなければならない」
チマッティ神父が教区長時代、東京大神学校の100名ほどいた大神学生のうち宮崎小神学校出身者は、東京、長崎に次ぐ3番目の多さであった。しかし、戦争によってそのほとんどが戦死した。彼らは宮崎の墓地に眠っている。
宮崎の小神学校は、戦時中の1944年に閉鎖。それまで17名が東京大神学校に、18名がサレジオ会の修練院に入った。最初の日本人司祭は向井有吉神父であった。
戦後、神学校は破壊されていたが、宮崎市の要請もあり、日向学院中学・高等学校として発足した。

戦争による教会関連施設の被害

焼ける前の大分教会の祭壇
空襲による宮崎知牧区の教会建造物の被害は、全焼した大分、都城教会等6つ、神学校その他の施設4つ、それ以外に修道院関係を含めて大きな損害を被った。
 
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