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第二部

宗麟の死より禁教令まで 1587-1613年

第一章 宗麟の死と大友家の崩壊 1587-93年

豊後崩壊
1584年、肥前の有馬氏は龍造寺隆信の圧迫に耐えかねて、島津義久の援軍を求めた。島原半島では戦争となり、隆信は戦場であえなく戦死した。島津はすぐさま矛先を豊後に向けた。宗麟の忠臣、立花道雪や高橋紹運を失うなかで大友の命運は風前の灯火であった。ここで宗麟は意を決して豊臣秀吉に救援を乞うべく、老体に鞭打って上京した。1586年5月のことであり、秀吉は救援を約束した。
豊後では統制がとれず島津に内通する家臣が相次いだ。南部衆と呼ばれる熊本県寄りの領主はこぞって離反した。唯一の例外は岡城を固守した志賀親次のみであった。肥後口、日向口より島津軍は怒濤のように豊後に押し寄せた。由布。府内、清田、大在教会は破壊され、宗麟がたてこもる臼杵にまで押し寄せた。宗麟の娘マセンシアは事態が逼迫したことを宣教師に告げ、城中に引き入れた。臼杵の修練院は焼き払われ、更に秀吉軍が入ったとき、教会も引き倒された。聖職者たちは数人を除いて全員山口へ逃げた。この戦争で豊後の全ての教会と施設は全壊した。

大友吉統、受洗する
1587年4月、秀吉は大阪を出立、豊後には羽柴秀長が黒田孝高と共に出陣、4月中に島津軍は豊後を撤退し、6月には秀吉の軍門に下った。7月には九州の国分けが行われ、宗麟には日向一国が与えられたが、「王は老いて疲労を覚え、己の魂の救いを計らんことを望み、新たに国の征服に労するを欲せず、感謝を述べてこれを辞した」(フロイス書簡)宗麟の晩年の最大の喜びはコンスタンティノの名で義統が受洗したことであった。豊前に陣した黒田孝高は、4月27日妙見岳城に於いて、義統にキリスト教の洗礼を受けさせた。コンスタンティノとは、「堅忍の人」の意味で、優柔不断の義統に与えられた皮肉な名前であった。

宗麟の死
1587年6月、宗麟は最期の戦いで、全精力を使い果たし、心身共に弱り。高熱を出し、病床についた。彼は担がれてジュリア夫人と共に二人の娘がいる津久見に向かった。6月28日、日曜日真夜中、ラグーナ(Francisco de Luna,1552-1617)神父・ジュリア夫人・次男親家と娘たちに見取られて逝去した。享年58歳。
宗麟は、ジュリア夫人との間に生まれた二人の娘を特に愛した。しかし、病気になってからは、彼女たちのことを口にしなくなった。ラグーナの証言によると「神父様、アニマ(霊魂)のことをお願いします。」ということであった。意識を失った際、うわ言で「クルス、クルス」(十字架)と叫んだ。宗麟の晩年、心を占めていたものは、自分の魂とその救い、十字架であった。晩年に到達した宗麟の信仰は次の2点である。第一は求道の精神である。宗麟の偉大さは自分の探すものを一途に求めていく姿である。晩年の彼にとって九州六カ国守護も、九州探題も、豊後の屋形の肩書すら、はや何の意味もなかった。宗麟が求めていたものは、現世で終わらない永遠に続く価値であった。自分が神の懐に抱かれて眠るその日を求めていた。年とともに彼は信念を持ち、落ち着きが備わった。それは一つの信念に到達した結果であった。
第二の要素は十字架の神秘の瞑想にある。十字架、苦しみの意味は彼の晩年に嫌というほど深く味わわされて理解することができた。九州の覇者の栄光、敗戦の苦しみ、栄光と失敗を経て人生の意味を理解したのであった。「彼はヨブのごとく試され」と、宣教師は報告している。ヨブは旧約聖書のなかの人物である。ヨブは家庭を奪われて、すべてを奪われて裸一貫となり、その屈辱のなかから「わたしを死なせてください」と叫ぶ。最後に、ヨブは苦しみも富も死も幸せもすべて神の手のなかにあり、人が神を思うとおりに動かすものではないと知るようになる。宗麟は「心を堅くし、徳を高めて」晩年を過ごそうとした。「6月28日、その同じ日曜日の真夜中に国主フランシスコは、この世の旅立ちを終えられました。国主のお顔は生前より安らぎを見せていました」(フロイス『日本史』)。6月30日通夜、7月1日葬儀が津久見に於いて営まれた。そしてキリスト教式に葬られた。しかし、一ヵ月も経ぬうちに秀吉の禁教令が出されたこともありいち早く棄教した義統はキリスト教式墓を仏式に変えさせ、それは大友滅亡後もそのまま残された。

吉統、棄教する
1586年12月には聖職者の大半は豊後を去った。更に1586年7月24日から25日にかけ秀吉は博多にあって禁教令を発布した。宣教師は国外追放、高山右近の改易などであった。コレジオ、修練院は山口より平戸、生月、有馬へと転々とした。8月5日、博多を去る前に秀吉は義統に棄教を勧めた。彼はすぐ転び、父、宗麟の法要を仏式で行った。吉統(秀吉の吉を貰って義統を吉統に変えた。)は宣教師が豊後に滞在することを好まなかった。それに反して竹田の志賀親次は、ラグーナ神父に竹田領にとどまって欲しいとの望みを表した。ラグーナは「|本人修道士ロマンと共に竹田領にとどまった。他は皆、平戸へ去った。しかし、豊後の荒廃を見るに忍びず、副管区長ゴメス(Pedro Gomes,1535-1606)神父は、1587年10月、2名の司祭を豊後に送った。1名は津久見に、他の1名は志賀に行ったものと思われる。87年末には3名の司祭が豊後に働いていた。ジュリア夫人と娘たちは、津久見に留まっていた。吉統の信仰心は冷め、田原親賢の勧めもあり、司祭が豊後に残ることには反対であった。志賀親次、林ゴンザロは、あえて司祭たちを保護した。吉統は家臣に誓詞を強要し、そのために諸侯が府内に集まることを命令した。そしてこの時、高田教会の中心人物、高田ルカスが処刑されるとの噂が流れた。ジュリア夫人、妹のレジナは兄、吉統に働きかけ迫害の中止を願った。志賀親次は司祭と相談し、誓訓にキリスト教様式による証文を添えて提出する折衷案を吉統に提案した。吉統は親次が軍勢を率いて出府するとの報せに驚いて、その義務はないと彼に通達した。宣教師追放令はこうして一時、沙汰止みとなった。1588年2月、吉統上京、秀吉に面会した。面会前に全ての宣教師退去を通達し、ジュリア夫人、レジナ、志賀親次夫妻、林ゴンサロ夫妻、高田のルカス、野津のレアンと教会の主だった人物に棄教を迫った。彼らはそれを同意しなかった。


殉教の初穂 ジョラン
吉統の反キリスト教政策は変わらなかったが、志賀親次との力関係の中で、それに徹する事ができないだけであった。岡領には、クリストバン・モレイラ(Christovao Moreira,1550-1599)神父とフランシスコ・パジオ(Francesco Pas10,1553-1612)神父が司牧し、布教戦線を広げていた。他の1名レベリオ神父は津久見を中心として活躍していた。志賀親次は吉統の子、塩法師丸上京に当たり、聚楽第へまで同伴した。1589年7月のことであった。その間を利用して吉統は、宣教師追放の命令を出した。またこの期間に高田教会のジョランを処刑にした。彼は刀鍛冶であり、宗麟の勧めで8年前に入信していた。熱心で、高田教会の中心人物、ルカスと共に柱であった。高田教会には以前アレキサンデルという世話係がいたが、その後をついでジョランが世話係になった。58歳であった。アレキサンデルの息子はイエズス会員となり、高田ルカスの名で宣教に当たった。ジョランは「深い愛情を以てキリシタンたちを訪問し、この任務を果たすこと以外は何の望みもないほどであった。彼は幼児に洗礼を授け、死者を埋葬し、病人を見舞い、信仰の弱いものを激励し、異教徒たちに説教し、洗礼を施した。日中はキリシタンを訪問することに時間を費やし、夜は死者を埋葬した。というのは、国主が全員に対し、キリシタンに係わる行為をやめるように厳命していたから、昼間には敬虔な業をなし得なかったからである」(フロイス『日本史』)。
当時、宗麟の右筆(秘書のこと)にあたる人が死亡して、その埋葬をジョランはトメともう一人のキリシタンの助けを借りて行った。ところが同夜もう一人のキリシタンは殺害され、その殺害容疑はジョランに振りかかった。ジョランの真摯な説得により真実が証明され、高田教会の熱心さが増した。ジョランは領主の命令がどうであれ信仰を守る必要性を説いた。吉統はそれを知って怒り、処刑を命じた。ジョランはそれを知り、待機していた。捕手がくると聖遺物とロザリオを頸にかけ、上に短白衣をまとった。「その白衣の上に平素守護してもらうために家の祭壇に置いていた小さな聖画像を携え、弾丸の代わりに祝聖された一つのコンタツの珠を口に入れ、もう一つを耳に挟み、槍の代わりには右肩に死者を埋葬するときに用いる十字架を担いだ」(フロイス『日本史』)。三太刀を浴びその度ごとに「イエズス、マリア」と唱えた。吉統は胴体を十字架にさらした。ついでジョランの妻と2人の息子は殺された。以上の5名は豊後の初穂であった。吉統は司祭が去ったあとに野津教会の世話役をしていたジョーチンも殺害した。彼も。刀工であった。ジョランの遺体は有馬に運ばれ、人良尾のセミナリオに安置され、殉教者の初穂として尊崇された。

ヴァリニヤーノ、二度目の来日
禁教下にある日本教会の現状を打開することもあってヴァリニヤーノ神父は再度来日した。第一回目来訪の帰途に同伴した四人の少年使節もたくましい青年として共に帰国した。ヴァリニヤーノ来日の噂は豊後にも伝わり、キリスト教好転の機運が感じられていた。吉統は1590年6月、北条攻めに参加するために出発するその前にキリスト教対策を協議した。結果は宣教師を豊後に呼び戻すことであった。吉統は親次を通してゴメス(副管区長)に書簡を送り、ゴメスは善処する旨を伝えた。吉統はヴァリニャーノ宛てにも一通認めた。 ヴァリニャーノは7月21日来日、早速加津佐に於いて宣教師協議会を開催、日本での現状を打開する方法を討議した。また吉統には以前と同じく、好意をもっている旨を伝えさせた。ヴァリニヤーノの来訪は大きな力であった。彼は1591年2月から3月にかけて京への旅に上り、九州各地と旅の途中で多くの人に出会った。室に滞在している間と、大阪に滞在している間に二度、吉統はヴァリニヤーノを訪れた。吉統は伊東マンショを通して仲介を頼んだが、マンショはそれを断った。吉統の政策の転換で、豊後の教会は息を吹きかえし、受洗者が増加した。転んだ者も多くは信仰にたち戻った。ヴァリニヤーノは2名の司祭と2名の修道士を豊後に送った。クリストバン・モレイラ神父とグレゴリオ・フルビオ神父の2名である。同伴したファンカン・レアンは優秀な修道士であった。

豊前教会の始まり
1587年。豊前は黒田加水の下にあった。彼は1585年、高山右近の影響でシメオンの名で受洗した。加水の下でキリスト教は順調に発展していた。加水はゴメスを訪ね、迫害時の宣教対策を相談した。息子の長政は中津城の留守居役を勤めていたが、受洗したばかりでもあり、禁教令の中で信仰から遠ざかっていた。1591年長政は室でヴァリ土ヤーノと会い、ダミアン修道士と長く信仰について話して後、豊前のために、ヴァリニャーノに宣教師派遣を願った。


第二章 豊後の分割と、豊後、豊前教会 1593-1600年

朝鮮出兵
秀吉は1591年9月には朝鮮出兵を決定。吉統は豊後勢もそれに添うべく準備を開始した。翌1592年2月には諸大名に出兵命令が出され、吉統は夫人を大坂城に人質として差し出した。先陣は小西行長であり、大友軍は5月に渡海、鳳山城の守りについた。緒戦で連勝を重ねた日本軍も年が明けると共に、明軍の加勢も加わったこともあり、苦戦を強いられた。先陣の小西勢は苦戦し、後方の大友軍などに救援を求めた。吉統は不在であったが報せに大友軍は慌てふためき、黒田陣営になだれ込んだ。朝鮮和平が成立して後、大友軍は除封された。主なき豊後は全くの混乱状態に陥った。占続け安芸の毛利輝元に、義乗は加藤清正に預けられた。大坂に人質となった夫人は山口へ送られた。家臣団もそれぞれの生活の選択を余儀なくされた。志賀親次は日田郡大井在に2000石を貰って移った。吉統の許に多くの豊後武士が集まり、不穏な行動と判断され、吉統は10月、常陸国水戸の佐竹義宣の所に移し加えられた。住民も多くが土地を去った。
豊後の検地が行われ、それに基づいて知行割がなされた。早川長政、府内1万3千石、福原直高、臼杵6万石、熊谷直棟、安岐1:万5千石、垣見家純、富来2万石、中川秀成、竹田6万6千石、竹中重利、高田1万5千石、毛利高皎、日田2万石と分割され、残りの大半は幕府直轄の蔵入地となった。蔵入地は16万から20万石であり、これは豊後が中央政権の意向を大きく反映する土地となったことを意味していた。

大友一族は諸方に散る
除国後、古統は山口の毛利輝元に預けられたが、豊後武士が山口に参集することもあり、水戸へと移された。この間信仰を少しずつ深めていった。吉統の子、義乗は江戸牛込の屋敷に暮らし、1612年36歳の若さで死亡、次男政照は大友家を継いだが、後に細川氏に仕え、松野姓を名乗った。大友親家は、島津侵入の折り、手引きしたことで兄の怒りをかい、父宗麟が宥めて津久見に引き耿った。父の葬儀にあずかり、文禄の後に参加、除国後、立花宗茂に預けられた。1609年、細川家に仕官、利根川道孝を名乗る。嫡子親英は松野氏を名乗った。親家は早くからキリスト教を棄て、更に寛永年間に入って二度にわたって転び証文に署名した。1641年熊本に於いて逝去、三男親盛も除国後、細川氏に仕官として松野年斉を名乗った。1614年、1636年と二度にわたって転び証文に署名した。1643年病死。志賀親次パウロは除国後に日田郡に地所を与えられ、日田地方のキリスト教化に力をかした。関が原の戦いの後、安芸の福島正則に仕官、間もなく備前の小早川秀秋の下にいたが直ぐに死亡したようである。親次の伯父の林宗頼(ゴンサロ)は除国後、長崎に行き、浦上郷に隠棲した。その子、親勝は浦上淵村庄屋につき、代々庄屋を世襲した。
大友の女性たちはキリシタン史を彩る人々である。宗麟の長女は土佐の一条兼定に嫁いだが、離婚して清田の領主、清田鎮辰と結婚した。この宗麟の娘は母親(奈多氏)のこともあり、洗礼を伸ばしたが、間もなくユスタの名で受洗して清田地方のキリスト教化に力をかした。又、興味を示さなかった夫に対しても熱心にさせることができた。鎮辰の親戚に清田ロマンがいて、非常に熱心であり、清田家に大きな影響を及ぼしていた。ロマンの弟、シモンは臼杵修練院の第一期生であった。彼はすぐにイエズス会を退会、清田殿に仕え、大友除封後、卜斉と名乗り、看防として教会に奉仕する道を選んだ。看防とは司祭不在の教会を管理指導する役割があった。信者の祈りの指導、教理の勉強、集会の指導などがその主な役目である。宗麟の娘マグダレナと結婚、夫妻で小倉教会の看防をつとめた。26聖人殉教の際に当時18歳であったマグダレナは副管区長に殉教への熱い想いを語った。1620年8月16日、日の出から2時間後、卜斉夫妻の従者夫妻とその子を入れて5名は小倉に於いて逆さ磔で殉教した。大友の娘のうち、毛利秀包に嫁いだマキセンシアは有名である。彼女は津久見に於いて乳母のカタリナの影響もあり、1585年8月6日受洗。
 
 
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